奉子です。少々ご無沙汰しておりました。私は元気ですと言いたいところですが、この10日間で過去2番目に、さすがにきついわーという出来事が起こりまして、文章を書けずにおりました。
本日、NLPコーチクラスのワークにて、それを課題にしたところ、とても素敵な気づきを得ましたので、このちょっと笑えない10日間を、今回も素敵な気づきのお話にしていきたいと思います。
では始めます。
しんどいことは続くこともあるそれが人生
羅列するとびっくりされると思いますので、詳しく書かずさらっと書きますね。
5/14 いつものフルートのレッスン。少し喉が痛くて嫌な予感はしたが、レッスンに行く。
5/15 早朝、入院していた父が急逝。風邪が明らかに悪化する。仕事の段取りをつけるため、午後14時から出社 20時まで仕事をする。
5/16・17 父の葬儀参列のため、内科に行ってから実家へ。無事に父のお見送りを済ませる
5/17 病院の薬は全く効かず、体調は悪化する一方、左半身が硬直し、動きづらい状況になる中、ついに自宅最寄り駅ホームで転倒。
手足で支えられず、なぜか身体が右に振られ、地下鉄のホームドアの壁に右のほうを激突させる
自宅に戻りすぐ冷やしたものの、痛みは相当なもので、右の眼の下がボクサーパンチをくらったように腫れあがる。
5/18 出勤する気でいたが、ほうが痛くて気になり、風邪もよくならないため、仕事に集中できないと判断。仕事をもう1日休む。
5/19 仕事復帰。風邪と腫れた顔を隠すため、マスクをするも、目の下が青たんだったので、全員にびっくりされる。
風邪のため、鼻を嚙むのですが、なぜかずっと鼻血の混じった鼻水がその後も5日間、出続けました。
5/20 父、初七日法要
5/21 発表会前の最後のフルートレッスンに行く。無事終了
5/24 職場に来ていた実習生が、「今月で実習を終了させたい」と申し出がある。。。大ショック((+_+))
(「鼻血せっかく止まったのに、また出そうやわ」とちょっと思う)
やっと待っていた鍼治療、先生に事情を話し、この日から体調が上向き始める。
5/25 リハビリのために京都の病院へ。転んだ話をして、一応見てもらうも「骨はなんともないわ。これ治り早いで」と言われる。
5/27 NLPコーチクラスにてこれら10日間の出来事を課題にしたところ、気づきを得る
というちょっと笑えない状況でした。
意外と冷静すぎる父の死と私
まあ、この話だけみると、皆さんは私の父が亡くなったことに対して、私が落ち込んでいるんじゃなかろうかとか、大丈夫かなあとか、きっとまず心配してくださると思います。
しかし、なぜかそのことには、さほど落ち込んでいないんです。
父は「この世でやるお勤めが全部終わったから、亡くなったんだなあ」ともう最初から達観してしまってまして・・・
周りの友人で前触れもなく、親御さんを亡くした方の話をずっと聞いていたのもあって、いつか自分も、絶対、両親と別れる日がやってくる。
それが明日かもしれないし、10年後かもしれないし、それはわからない。でも絶対に来る。
つまり、心のどこかで常に「覚悟していたこと」だったのです。
さらに私の父は今年の1月末に一度かなり容態が悪化した時期があり、そのときに一度「来るかもしれない」と思ったのもあるかもしれません。
父とふたりだけで会話をたくさんしたこの10年
私は父と結婚するまではよく、ぶつかることもありました。
父の考えた方のパターンが理解できなかったからです。
しかし、10年前の結婚を機に、私は両親のありがたみが痛いほどわかりました。
結婚してからも、父は私の送り迎えで、車に乗せてくれることがよくあり、その自動車というふたりだけの空間で、本当によく話をしたんです。
私が結婚してから感じたこと。私の思い。両親への感謝の気持ち
父がいえない、姉や母に対する思いを、私にだけ話したりというのも本当に多かったです。
父はもともと口下手なのですが、昨年11月に入院してから、病気の影響で声を出しづらくなったんです。
会話をしたいと音のなるボードとか買ってみたりもしましたが、父はそれすらめんどくさがって、この半年は父とは会話はないに等しかったです。
返答はないけど、ただ、私が勝手にずっとしゃべっている感じです。
本当に夜に寝たまま、早朝に心臓だけが止まって天国に行ってしまった父なので、いわゆる危篤もなく、最期の言葉もなく、でした。
そんな中でも、自分に落ち込みというより「お父さんに対して後悔がない」と断言できる自分がいました。
それは、私が父からこの10年で、二人しか知らない会話をたくさんしたからだと思います。
今、振り返ってみてみると、父はたまに私の話に対して「お前はすごいなあ」といってくれたのも思い出しました。
故人に恥じない生き方をする。私が思うこと。
さらに父には悪いですが、私には父以上の存在だった、鍼灸院の先生が亡くなったと知った時の方が、ダメージはありました。
先生も闘病生活が長く、末期がんだったので、どこかで覚悟はしていましたが、先生は会えなくても生きてるだけで、私の心の支えでした。
ただ鍼の先生が亡くなった後、実は自分の中では、常に鍼の先生が近くで見ている感じが、かなりあります。
父も肉体はなくなったかもしれませんが、鍼の先生と同じだとすると父も、私の近くで見ているということです。
鍼の先生にしろ、父にしろ、やっぱり私は褒めてほしい。
ふたりが褒めてくれる生き方は何かを考えた時、それは私で言うと、今まで通り、前に進み続けることです。
困難に打ち勝つことです。
父が本当に眠るように安らかに旅立ったのを見ると、やっぱり人生困難を乗り越えて、やりたいことやりきらなきゃなと改めて思いました。
それよりきついのは体調不良
実は私自身が自分できついと感じてるのは身体が動かない。ほう骨激突、実習生終了の方なんです。
たぶん実際は、過去に体験したことのない親の死も影響しているのは確かです。
落ち着いてはいるものの、全く動揺していないは嘘です。
しかし、これは全員が体験することでどうしようもありません。
この体験により、風邪が治らない。薬が効かない。さらに身体が硬直。ほう骨激突と自分の身体が動かないというショックの方が大きく、つらいです。
しんどくても仕事にはいかなくてはいけません。自分が思うように仕事ができないのはつらいです。
そんな中での「実習生終了宣言」は本当にこの2か月間頑張った自分が否定されたような気持に一瞬でもさせた出来事でした。
顔の負傷はかなりきつい
こちらの過去記事にもありますように、私は本当に痛みに強いです。
しかし、この私が骨折していないのにも関わらず「顔の痛いのが気になって仕事ができないと判断し、休む」という決断をしました。
顔って常に息をしたり、食べ物を食べたりと、他の箇所より自然と動かしてしまう部位です。
さらに私は、風邪をひき、咳と鼻にも悩まされていました。
顔を本当の意味で動かさないって不可能だと思います。
先日、阪神タイガースの鳥谷選手が、顔にデットボールを受け、鼻の骨折。フェースガードつけてでも代打で試合に出ていました。
フェイスガードの下に見える目の下が、私が負傷したほうの色よりさらにひどい色でした。
鳥谷選手はさらに鼻を骨折しています。
骨折していなくても鼻血に悩まされたのに、鳥谷選手はもっとひどい。
それを考えると、試合に出るってどんな精神力だと本当に思います。
困難を乗り越える方法。それは過去の私にあった
そんなこんなで、さすがにしんどいなあと思っていたところに、今日はNLPコーチクラスの講習がありました。
そこで、たまたま「過去の困難を乗り越えたことを思い出して、そこから得られたものは何ですか?」というのがあったんです。
自分自身では「不可能を可能にしてきた私の人生」というのがあったので、困難て何があったっけ?と思っていたのですが、
ありました。それがこの2013年12月に書いた私の過去記事です。
この時の自分と今の自分を比べてみると、困難度合いは確実に2013年12月の方が上です。完全な体調不良ですから。
今は、父の死は別として、体調は上向きになってきていて回復途中。
ダメージがでかいのは実習生のことだけやん!!と思うと、その時の自分の乗り越え方が気になったんです。
私に今、足りたいものを見つけました。
「だから何?今までもあんた何でも乗り越えてきたやん!できるって」って笑い飛ばす!!
そう、15歳の「私は何があっても笑って生きよう」と決めたある日から、私はずっと毎日笑顔で過ごしてきた。
そうすることで、あんなに友達が少なかった私に、たくさんの友達ができ、今もずっと私を支えてくれている。
父が亡くなったあの日から、やっぱりどこかで、笑うことを忘れていたんです。
父が亡くなったことは表面上は受け入れていたとしても、家族としては笑える状況ではなかったんですね。
しかし、私のここまで生きてきた原動力には、必ず笑顔があった。
笑顔とともに、乗り越えてみせるという強い信念があって今の私がある。
それが私。
実は、今日講習中この気づきを得て、ワークをしていたら突然、
鍼の先生にポンっと「とも、しっかりせんかい!お前ならできるわ!!」って肩をはたかれたような感覚に陥りました。
やっぱり私は「どうしよう・・」って止まっていたらダメなんですね。
毎回本当に思いますが、NLP講習恐るべし。今日も素敵な気づきをありがとうございました。
明日も頑張ります。
私のNLPの先生の書籍のご紹介です。