奉子です。今日は私とは切っては切れない音楽との関係についてお話しします。
出会いは6歳。ヤマハの音楽教室
私がいわゆる音楽と出会ったのは6歳。いわゆるヤマハの音楽教室、エレクトーンの集団レッスンからでした。
しかし、左手が特に不自由な私は技術面では集団レッスンにはついていけず、皆が取れるグレードも取れなかったはずです。
しかし、今振り返っても苦痛な面はあまり覚えていないのです。
覚えているのは絶対音感があった私は音にはすぐに慣れたこと。
グレードは受からなかったかも知れないけど、集団の発表会にもちゃんと出演して楽しかったという記憶しかないのです。
8歳よりピアノを習い始める
8歳より、ヤマハの集団ではなく姉が通っていた個人のピアノ教室へ行き始めます。
当時の私にはなぜ自分がエレクトーンではなくピアノなのかもわかりませんでしたが、姉も通ってたので何とも思いませんでした。
実は私と音楽の出会いはリハビリの一環だったという事実
エレクトーンもピアノも母がなぜ私に習わせたのかは当時はわかりませんでした。
当時の私の左手は小指と薬指がわりとくっついてて、個々で鍵盤を押すこともできませんでした。
習い始めの私は、それが他人と違うから嫌だという認識は全くなく、楽譜を読んで何の音かわかるという時点で楽しいと思ってしまい、大きな劣等感はありませんでした。
ピアノの先生も私のその上手く動かない指を見て、楽譜を工夫してくれ、左手の伴奏の部分は3音押さえないと行けない和音は第3音を抜いて、和声的におかしくないように工夫をしてくれました。
つまり、私にとってのピアノのレッスンは「技術的に上手になること」ではなく「音楽を好きになること」「ピアノを楽しいと思うこと」だったのです。
最初はくっついていた左手薬指と小指も2年以内にはいつの間にか単体で鍵盤がたたけるようになってきました。
ピアノは結局8歳~24歳まで習い続けることになろうとはこの頃は思いもよりませんでした。
私とフルートのとの出会い
中学生になったとき、学校に器楽部があり入ってみたかったのですが、当時の私の生活は学校から帰ったら自宅での母とのリハビリが優先でした。
リハビリとは過去記事「初めての敗北感、そこから始まった挑戦とは」でも触れている「ボイタ法」という名前のリハビリで、私の母は、自宅でも中学卒業まで1日2回は私をリハビリしておりました。
私は子どもの頃から母に「勉強しろ」と言われた記憶はほとんどなく、遊びに来ていた友人を待たせてでも訓練第一でした。
そのため、毎日遅くまで練習のある器楽部には入ろうにも無理でした。
もともと音楽が好きな私です。友達が持っていたフルートを見て「キレイ。私もやってみたい」そう思ったのです。
それで、母に頼んで初心者用のフルートを買ってもらい、京都JEUGIAの音楽教室でフルートの個人レッスンを受けることにしました。
しかし、個人レッスンを受けるも難しく吹けなくなり、1年ちょっとで一旦挫折してしまいます。
憧れだった吹奏楽部のある高校に合格。私のフルート再挑戦
決して成績は良くなかった中学時代ですが、無事に第一志望の公立高校に合格します。
実はこの高校、私が小学生の時から憧れだった吹奏楽部のある高校で、小学生の時から「この高校に入って吹奏楽部に入りたい。」と思っていました。
私の母もそれをよく知っていたので、さすがに高校から家でのリハビリは免除され、憧れの吹奏楽部に入部します。
その吹奏楽部で私のフルート再挑戦が始まるのです。
今振り返ると、その中3までの母や凄腕鍼灸師の先生のおかげで、高校で月1しか休みのなかった吹奏楽部で遠征も含め、皆に遅れることなく全てついて行けていたのだと思い知らされます。
私のことを障害があるからという理由で特別扱いしたり、待ってくれる人なんていない上、それで文句言われたことはありませんでした。
そこまでの体力が私にはついていました。
改めて母やおっちゃん先生のすごさを思い知らされた感じがします。
甘くはなかった。技術のない私の落ちこぼれ生活
今まで、楽しむことしかして来ず、他の人と比べてどこまで自分が技術面で劣っているかは考えて来なかった私に、現実は甘くはありませんでした。
その高校の吹奏楽部に入部するために遠方から入学してくる子もたくさんいるのです。
中学からバリバリやっている子に勝てるわけがありませんでした。
しかも吹奏楽部はコンクールありき。楽しむ前に技術面で上手でなければ、たとえ年齢が上でも蹴落とされる実力主義の世界でした。
しかも吹奏楽の楽譜は「テンポ通りに正確に」が求められます。
手が不自由な私だけができない譜面がたくさんありました。つまり部の練習についていけないのです。
焦った私はまた個人レッスンの門を叩く。師匠との出会い
このままではダメだ。そう思った私は親友のお父さんの紹介で、高校の先輩で音大生をやっている方を紹介していただきました。
それが今の私の師匠です。
16歳で師匠に出会い、先生のご自宅に通い始め、普通の個人レッスン+クラブの譜面のレッスンというとても贅沢な構成でした。
高校を卒業してからも、個人レッスンだけはずっと続けました。
せっかく両親に買ってもらったそれなりの値段の楽器を、タンスの肥やしにするのがもったいなかったのです。
その16歳の出会いからもう25年以上経っても、途中半年ぐらい抜けた時期はあったかもしれませんが、私はまだその師匠のところにレッスンに通っています。
そして、高校を卒業したぐらいからほぼ毎年発表会に出続けているのです。
できる部分を伸ばしてくれる、私と師匠の関係
私の手の障害のことも含め、高校生時、どうすれば部でもなんとかついていけるか考えてくれた師匠
部で落ちこぼれだった私が、どうしてこんなに長くフルートを続けられたのか、それは師匠のおかげだと思っております。
きっと自分では気がついていませんが、師匠はそのときの私ができる精一杯を見極め、良い部分を伸ばし続けてくれたのだと思うのです。
今でも「この指はどうしても無理やったらこの小節は良いから、その代わりこの曲はここが大事だからちゃんと吹いて」等言ってくれます。
しかし、ここまで長くやっていると、自分でも気がつかないうちに、高校生の時は出来なかった部分も、気づかぬうちにできるようになり、師匠の要求度もレベルアップしていることでしょう。
最近は20年ぐらい前にやった教本をもう1回やることをしているのですが、かなり難しく、どうして過去の私が◎がついているか意味がわからないのです。
師匠に聞くと「たぶん昔は譜面がなんとなく吹けてたら○してたんちゃうか? 今は表現面も含めてくろちゃん気にしてるし、テンポも速いはずよ」と言われました。
何がなんでも音楽を続けたい。執念の25年
障害に甘えていた高校時代
高校の時は厳しい練習も嫌いで、どこか「どうせ私は障害があるしできひんねん」と甘えた部分があったのも確かです。
実は当時、同じパートの仲間に「くろちゃんは、障害を理由にして練習してへんだけやろ?甘えたらアカン。上手くならない」と一喝されたことがあるのです。
結構事実でした。それまで、いっぱい練習して上手くなることより、楽しけりゃそれで良いと思って生活してきたので、他の方とはまるでモチベーションが違ったのです。
それでもその一言を言われてからは、決して追いつかないけれど、甘えないで努力をしようと思ったのは確かです。
その一言がなければ、私はピアノもフルートも20年以上も長く続けていなかったかもしれません。
22歳のとき音楽療法と出会う
技術が全くない中でも、好きという理由だけで音楽を続けてきた私。
そんな私が22歳の時、音楽療法と出会います。
この音楽療法で、技術ではなく音楽を心で対話する道具として学びました。
こちらの話もまた別にの機会にたっぷりお話ししたいと思います。
私とライフワークとしての音楽を語るためにはこの話は欠かせないため、まず事柄のみご紹介しておきます。
結婚時、大金はたいて自宅に防音室まで設置。
私が結婚時から住んでいる今の自宅には防音室があります。
その当時の私にとって過去で一番高い買い物でした。
ここまで来たら、もうアホです。ぶっ飛んでます。
音楽を続けたい、そこはもう絶対に譲れない部分になっていました。
「音を楽しみながら、少しでも上手になりたい」現在の私
今現在の私は、高校生の頃には思っていなかった、「聞いてもらう人の心に何か感じてもらえる演奏」を目指しています。
技術的には上手い中学生にも勝てない部分がある。
しかし、長く続けていたからこそ、年齢や経験により出せる音色があるのではないかと今は思っています。
またの機会に触れたいと思いますが、私と音楽の関係は決して簡単ではなく、戦いもあったのは確かです。
しかし、ここまで執念で音楽を続けてきた、それは好き以外の何ものでもないのです。
音楽を止めること。それは私の今までの人生を否定することです。
息を引き取るその日まで、音楽と関わっていきたい。そう思います。