奉子です。私にはこの先も一生頭の上がらない人物がおります。
私の生い立ちを語るに切っては切れないこの人物、この方に出会わなければ今の私はないと言い切れるほどです。
とっくに私は死んでいたかもしれないし、死んでいなくても現在のようにに自由に好きなところに行ったり、フルタイムで働くなんてことはできない身体である可能性もあります。
この人物についてお話したいと思います。
一生の恩人、凄腕「鍼灸師」 愛称「おっちゃん」との出会い
その人物と出会ったのは私が1歳8ヶ月頃。
当時はまだ「脳性麻痺」という私の障害名がわかっただけで、伝え歩きも含め、全く歩けずだった私。
私の母は色々な方に相談をしました。
その結果、ある方が「鍼に行ってみたら?良い先生がいるよ」と言ってくださり、母は藁にもすがる思いでその京都府八幡市にある鍼灸院の門を叩きました。
私を診察した先生が、私の母に「10回来てみなさい。もしそれで何も変化がなければあきらめてください」とおっしゃいました。
するとなんと8回目あたりで反応があったそうで、私が歩こうとしたそうです。
もうこれに私の母はびっくり。そこから私の長い鍼灸院通いが始まったのでした。
注射嫌いの私がなぜか一度も泣かなかった鍼治療
私の最初の反応があってしばらくして、私を最初に診察してくれた先代は亡くなり、当時まだ30代だった2代目の先生がそのまま私の治療を引き継ぎました。
「この子の足が、身体が良くなりますように」母はそんな思いで、お金や手間を惜しみ、週3回も伏見から八幡まで私を連れて通いました。
当時の先生のお宅はバスの本数も少なく、タクシーを使うこともしばしばだったと思います。
そして私が物心ついた頃は私にとって先生は「何でか知らんけど、お母さんが週3回連れてくる鍼医者のおっちゃん」でした。
母に「なんで私はここにこんなに来るの?」と聞いても「あんたには大事なんだから」と言われただけで小さい私には理解できませんでした。
私は覚えていませんが、当時大人が何人も「僕たち時間かかるから、赤ちゃんやし先にしてあげて」治療の順番を代わってくださったようです。
一般的に鍼治療は好みが分かれる治療です。大人でも鍼は怖いから嫌だという方はたくさんいます。
しかし、母によると1歳8ヶ月で最初に治療したときから泣いたことが一度もないそうなのです。
私も大人になって先生の赤ちゃんの治療の場面は待合室で遭遇したことはありますが、泣く子はもちろん泣きます。
これも今考えると運命だったのかもしれません。
話した時間は実の父親以上。おっちゃんとの楽しい日々
ちょうど私が5歳になるときです。
先生のお宅が引っ越しをし、住所は八幡市内ですが、最寄り駅が樟葉駅になりました。
先生の家までのバスの本数も多く、とても通いやすくなりました。
そんな私もどんどん大きくなり、小学4年のある時期から母同伴ではなくひとりで樟葉まで通うようになりました。
その頃にはもうひとりで歩けるようになっていたのです。
母が同伴しなくなってからは、おっちゃんとふたり。それでもやはり週3回です。
小学校に入るぐらいからおっちゃんに「おなかが痛い。熱が出た。足に身が入った」等の不調を訴えると本当に一撃で治るということが、子どもながらにわかってきました。
週3回はしんどいけど、調子の悪いところはすぐに治してくれる魔法使いのようなおっちゃんと思っておりました。
おしゃべりの私は、学校で会ったことを「○○くんがいじめんねん」~「今日学校でテストがあってできひんかってん」まで、とにかく家にいる両親と同じように何でもかんでも話しました。
ちなみに先生も阪神ファンでした。そのため、「ともはどの選手が好きやねん?」とか1985年の優勝の時はグッツをくれたりもしました。
さすがに中学生になった頃には呼び方が「おっちゃん」はおかしいのはわかっておりました。
しかし1歳8ヶ月から「おっちゃん」でインプットされ、週3回も会っている相手の呼び方をいきなり変えるのは無理でした。
先生もわかっていたので「ともは、おっちゃんでええねん」という始末です(>_<)
親にも言えないことを相談した日々
さすがに20代になると親にもいえない悩みが出てきます。
今の夫とまだ付き合っていた頃に相手の両親に会いに行くことについて親に反対され、相談もしました。
20代、30代になると、悩みは親ではなくおっちゃんに相談に切り替わっておりました。
多くの身体の不調を治してくれたおっちゃんは、私にとって絶対でした。
親に逆らったとしても、おっちゃんに言われたことは何でも聞けました。
結婚してからは夫も何度か不調を治していただけました。
さすがにこの頃は週3ではなく週1か2になっていましたが、おっちゃんがいない生活は考えられませんでした。
突然やってきたおっちゃんとの別れ
それは6年前のことです。
その頃おっちゃんは持病があり、時々休診することがありました。
あるときいきなり私の携帯におっちゃんから電話が入ります。
「あ、ともか?おっちゃんな、しばらく入院するし休むから。いつになるかわからんし。」
その日を境に、おっちゃんが鍼灸院を再開することはありませんでした。
元々持っていた持病ではなく、おっちゃんは末期がんに冒されていました。
そのことを最初に知ったときは私はショックで大泣きしたのを覚えています。
それでも私の好きなおっちゃんは病気になんか負けるわけない。そう思いました。
自宅に電話をしても全く出てくれないおっちゃん。
そう、おっちゃんは弱った姿は私には見せてくなかったのです。
そこから数年、私は過去話していたようにどうしてもおっちゃんに話したい悩み事や近況を手紙に書きました。
病気と闘いながらもおっちゃんは時々返事もくれました。
今までやっていなかった年賀状のやりとりもしました。
そして、2年前のお正月。おっちゃんに年賀状を送った私ですが、いくら待ってもおっちゃんからの返事がありません。
おかしいと思っていた2月頃。私の夢におっちゃんが出てきたのです。
夢は治療所に行く夢です。でも場所はちょっと葬式をしている横で人が並んでいるのです。
夢の中で「え?おっちゃんどこ?」と思う私にいつもの白衣を着たおっちゃんが「とも、待たせたなこっちやで。次お前やろ」
という夢だったのです。
実家におっちゃんの忌明けのお品が届いたのはその夢を見てから2週間後、おっちゃんは4年闘病し、私が夢を見た1か月半前の大晦日に亡くなったのです。
年賀状の返事が来るわけはありません。おっちゃんは天国に行ってしまったのです。
今だからわかるおっちゃんの偉大さ
おっちゃんが休診して2か月後、体中が痛くなりなんとか友人の紹介で大阪市内の鍼灸院に行った私
初診時に今までの経緯と鍼に恐れがないこと、今まで何でもかんでも鍼で治してきたことを話しました。
今の大阪の先生が私の身体を診察してびっくり。
「前の先生、ほんまにわかってきちんと治療しておられる。それじゃなかったらこの障害のある子がこんなにしゃかしゃか動けないはず」
大絶賛でした。
今の先生も私が他の人よりも鍼治療の反応が良いので、上手くはやってくださっています。
でもあの荒療治ながら一撃必殺はおっちゃんにしかできません。本当におっちゃんは凄腕でした。
体力が落ちた今、おっちゃんにお詫び
私は実家にいたころにおっちゃんに「ともの家は山の上で大変かもしれんけど、ともの身体にはええねんで」とよく言っていました。
結婚し、大阪市内に住んだ今、駅も近く坂もない楽な生活を10年近くした結果、体力が落ち、凸凹道がうまく歩けなくなり、昨年夏からはついに疲労すると足が硬直するという悲しい状態になっております。
そのため、杖も購入。
おっちゃんがいたら「ほら、みてみい。おっちゃんのいうこと聞かんからや」と怒られるのは目に見えます。
おっちゃんへ
「私の努力の甘さは認めます。これから体力維持に努めますので、どうぞ今まで通り好きなところに行ける身体を維持させてください。お願いします」
というところですかね。
おっちゃんのお参りは毎年12月
おっちゃんが亡くなったと知った今は毎年12月におっちゃんのご自宅に行きお参りさせてもらっています。
おっちゃんが最後まで食べていたというリンゴをもって、毎年の感謝の報告です。
おっちゃん、ありがとう。今でも毎日見られている気がしますが、これからも見守ってくださいね。