奉子です。先日、私と音楽の切っても切れない関係をお話ししましたが、音楽と出会って35年、決して楽しいだけの35年ではありませんでした。
今回は私の楽器演奏に関しての軌跡をお話ししたいと思います。
リハビリと思わず続けたピアノレッスン
ヤマハの集団レッスンではついていけなかった私を母がピアノの個人レッスンに連れて行きます。
最初はレッスンの前に音符カードで音と音名(ドイツ語)を覚えるところから始まり、演奏の練習が終わったら聴音の練習。そんなメニューでした。
6歳~24歳で、ピアノの譜面はバイエル、ツェルニー30番、40番、バッハ、ソナチネ、ソナタの最初の方まで触ったと思います。
ここだけ書いたらそこそこ上手い人に見えます。
しかし、私のレッスンの目的はリハビリであり、音楽を楽しむこと。
本来の上手になるための細かい技術を練習するレッスンではありませんでした。
よって私の演奏は
- テンポは自分が出来る最大限の速さで
- 譜面に書いている音を鳴らせる分だけ鳴らし(指が上手く動かない場所は和声がおかしくないように変形)
- 強弱指示はできる限り頑張ってみる
というものです。つまりピアノを叙情的に演奏するという観点からはかけ離れておりました。
手の障害といってもわかりにくいとは思います。
麻痺の障害なので、たとえば「モノをハサミで切る」ことはできても「線の通り真っ直ぐに切る」ということが難しいです。
「折り紙を折る」ことはできても綺麗に端と端を合わせることが出来ないのです。
ピアノは誰でも音を鳴らすことはできます。しかし、全く同じ簡単そうな楽譜でも初心者と上級者には大きな違いがあります。
つまり私のピアノの演奏は、音を鳴らすというレベルで色々な楽譜だけをやったというものです。
しかし、この事実を思い知らされたのは23歳の時でした。
ピアノで自分の限界を思い知る。初めて音楽が嫌いになった瞬間
忘れもしません、それは23歳。私が音楽療法の学校で学んでいたときのことです。
学校ではピアノの授業もありました。
先生が私に演奏してくるようにと課題に出した曲は、私が中学生か高校初旬ぐらいに個人レッスンでやった曲でした。
当時の私は、自分の演奏がいかに一般の長くピアノを続けている人達とは違うレベルだということはわからず、難しい譜面をやることが上達していることだと思い込んでいました。
そのため、学校のピアノの先生がどうして私にこんなレベルの低い曲を課題に出すのか理解ができなかったのです。
当時の私は「私は個人のピアノの先生ではソナタ練習しているのに、何で学校ではこの曲なの?」そんな風に思っていました。
そして、レッスン時は先生の指示通り演奏しているつもりでした。
しかし、何度やっても「違う、違う」と言われ続け、同じ曲を2ヶ月ぐらいやらされ続けました。
「どうしてもっと音楽的に弾けないの?ここはもっと叙情的に!」何度も言われました。
もちろんやっているつもりでした。でもできなかったのです。
ここで初めて知ることになるのです。
今までの私の演奏は音楽的な演奏でなかったことを。。。
学校の先生は、一般的に技術の向上を目指して、演奏のレベルアップを図る指導をしているだけのことです。
音楽を演奏するというこは少しでも人の心に訴えかける演奏を目指さないといけません。
私にはそこが足りないから指摘しているだけです。
今ならわかるのですが、私の手の障害は自分で力加減のコントロールができない障害のため、演奏者の指の力加減で演奏の色が付けられるピアノには限界があったわけです。
しかし当時の私には厳しすぎる指摘でした。
学校の先生は私の昔を知りません。
小指と薬指がほぼくっついていた私が、ここまで練習を重ねやっとたどり着いたことなど知るわけがありません。
これが私の精一杯なのに。
そんなこと言ってもただの言い訳です。先生にそれがわかるわけない。
私がピアノにおいて、自分の限界を感じた瞬間でした。
また、8歳から習い続けている個人の先生が、どれだけ私の障害を理解し、私を音楽好きになるように育ててくれたか痛いほどわかった瞬間でもありました。
そして、音楽療法の学校を卒業してからは私は、遊び的な弾き方はできても、楽譜を見てピアノを演奏するということしなくなりました。
私は人に聴かせられる演奏はできないから弾いてはいけない。そう思ってしまったのです。
音楽を完全に嫌いになれなかった。残ったフルート演奏
ピアノから完全に手を引いてしまった私には、まだフルート演奏が残っていました。
そう、結局ピアノでは限界を感じたものの、音楽を全て否定する気にはなれなかったわけです。
フルートにはまだ限界を感じていなかったのです。
それでも決して熱心に練習していたわけではありません。のらりくらりです。
そのためこんなことの繰り返しでした
毎回の発表会は黒歴史
毎年の発表会。本番ではもう惨敗に次ぐ惨敗。
練習を100とすれば毎回50%ぐらいの演奏しかできませんでした。
緊張で毎回音は裏返り、指は回らないし、綺麗な音も出ない。
唯一良いのは最後まで止まらないこと。これぐらいでした。
最初の10年は記憶から消したいと思うほどです。
初めて「今日は60点ぐらいかも」と思えたのが27歳ぐらいのときでした。
できるかもしれない。光が見え始める
最初の10年は、最初の数年を除き、恥ずかしすぎて発表会で知り合いを呼ぶことは一切しませんでした。
「発表会」=「大失敗で大恥」がインプットされていたからです。
しかし、最初60点の演奏してからの5、6年間ぐらいの発表会は、自分でも「もうちょっとでできそう」という光が見え始めたのです。
その頃から職場の同僚を発表会に招待するということを復活させます。
あるとき聞いてくださった方がこうおっしゃいます。「あなたの演奏には光るものがある。頑張って練習続けてください」
16歳から本格的にフルートの練習に取り組むも落ちこぼれだった私が、初めて演奏で先生ではなく他者から言われた言葉でした。
もうこの頃のあのピアノの挫折を味わった後です。演奏するということがどういうことかは理解できていました。
「私、フルートはまだ限界じゃないんだ。頑張れば上手くなれるんだ。」
手に麻痺があってもまだ余力のあったフルート
先ほど、ピアノは指の力加減が必要とされる楽器だったため、麻痺のある私には限界を感じたお話しはしましたが、フルートは曲選びを上手くすれば、余力がありました。
麻痺があるということは、指が思い通りに動きません。
つまり速いテンポでたくさんの音を吹く曲は、出来る速さに限界があるのです。
先ほどのピアノの経験から、自分の好きなテンポで吹くのは音楽的には良くないことはわかっております。
そこで私は指回しの少ない、ゆったり音を聴かせる曲を選んで、発表会等で演奏します。
吹く楽器は良い音色で吹く。そこが一番大事です。
話すことに自体に障害がある場合は難しいですが、私の場合はそこはなかったので、指が出来ない分は音色でカバーすることを目標に日々練習を続けています。
練習が力に。日々の練習が私の心のオアシス
結婚時、自宅に防音室を設置し、執念で続いているくせに「練習が嫌い。」と思ってきた私に大変化が起こります。
高校から数えて18年ぐらいたった頃、あるとき練習が苦でなくなっていることに気がつきます。
「しんどいからこの辺にしておこう」ではなく「自分が今日はここで納得だからここまでにしよう」に変わっていました。
その頃から音色が格段に変わったのを覚えています。
この心の変化にはこんな理由がありました。
職場で上手くいかず、心が折れかけていました。
また別の機会に触れますが、病気寸前の状態までいったこともありました。
それがフルートを練習するとしゃんとするのです。だだの指練習の曲集でもそうなるのです。
つまり音を出すことが私の心の癒やしになっていました。
自分の心がしゃんとするまで練習する。それが結果的に私の演奏レベルを上げたのでした。
初めて虹が架かった瞬間。心に届く演奏の喜び。
練習は嘘をつかない。練習すれば結果は必ず出る。
高校の時からずっとそう言われてきて、20年弱、私には自分が満足できる演奏はしたことはありませんでした。
「やっぱり私のレベルはこんなもの」どこかであきらめていた部分があったのも事実です。
しかし、そんな私にもついに日の目を見る日がやってきます。
いつもの友達の結婚式の余興演奏
私は29歳ぐらいから、友達の結婚式でスピーチをする代わりにフルートを演奏しています。
生の楽器を見たことのがある人が少ないので、結婚式で楽器を吹くと華やかになります。
結婚式の演奏に大曲はいりません。誰でも知っている曲を少し吹くだけで良いのです。
義妹の結婚式の時です。
彼女のリクエスト曲を伴奏のCDに合わせて演奏します。
終わった瞬間どうでしょう。ものすごい達成感でした。
そうです。初めて自分の満足する演奏が出来たのです!
その後、私は何人もの、全く知らない方に入れ替わり立ち替わり声をかけられます。
「演奏良かったです。めちゃ上手ですね。感動しました。いつからやられているんですか?」びっくりです。
あの落ちこぼれだった私が、見ず知らずの方に声をかけられ褒められるのです。
このとき私36歳。つまり、真面目にフルートに取り組んで20年。とても長い年月です。
執念で続けてきた結果、ついに「人の心に届く演奏」ができるようになったのです。
もっと上手になりたい。これからの私
その成功体験以降、毎回の発表会も完璧でなくとも、自分で納得のいく結果が出せるようになりました。
師匠以外の人に「今の演奏良かったよ」と褒められることが増えたのです。
少し自信のついた私は発表会に友人たちを気軽に呼べるようになりました。
しかし、私が発表会で演奏して、表現したいものはもっと上にあります。
練習は嘘をつかない。それがわかるまで20年もかかった私。
これからも長い道のりが続きます。
私の演奏がどこまでいけるようになるか、見守っていただけると嬉しいです。