奉子です。今日は私が22歳から2年間勉強した音楽療法のことについてお話しします。
音楽療法って何?
音楽療法というと、音楽で人を癒やすから「音楽を聴くことか」と思われる方もいらっしゃるかと思いますが、ぞこは少し違います。
もちろん、たまには演奏して聞いてもらうだけということもあります。
一般的に、音楽療法は、
障害で言葉が話せない人が、音楽という道具を使い、自己表現してもらう。
お年寄りがその年代にとって懐かしい歌を、一緒に歌ったりすることで、楽しい気持ちになり心が癒やされたる。
また音楽を流しながら身体を動かすことで、自然とリハビリができ、苦しいリハビリではなく、楽しくやることで効果が上がる 等の
自己参加して自分の心が豊かになり、結果的に皆さんの日々の生活の質を向上しよう というものです。
今まで全く楽しくなかったのが、音楽の時間が楽しく、以前より前向きになれた。などそういうことを目指しております。
決して受動的なものではなく、あくまでも自己参加型の能動的なものです。
母が私に勧めた音楽療法
20年前、1990年代後半、音楽療法という言葉が世の中に出始めた頃です。
私はもちろんよく知りませんでした。
しかし母がしきりに私に言ったのです。
「あんた音楽療法やったらいいのに」
音楽をリハビリ等の機能回復に使う、等の話から、私はピアノはそのときすでに15年以上やってて好きそうだし、フルートもやってるし、何より
「障害者の私が、好きな音楽で人の助けができるかも知れない」
と母は思ったのだと思います。
私も決して興味がなかったわけではなかったので、ふーんって感じで聞いておりました。
え?マジで京都に音楽療法の勉強できる学校ができる!
そんなことを思っていた矢先、京都に音楽療法の勉強ができる学校ができるという話が舞い込んできます。
学校と言っても、楽器店が経営するエレクトーンやビアの講師を養成する学校の中に科ができるのです。
自分が土地勘のある、三条京阪から徒歩10分。
十分に通えます。もう気になって仕方がありません。
行きたくなかった教育実習。音楽療法に心が傾く
学校ができると知ったのは、大学3年生の時。
私は大学で、教職課程を取っていました。
中学の社会の先生に憧れ、「社会の先生になろう」と思って史学科に入学したのです。
しかし、私が取っていたのは中学高校の先生の免許。
教育実習は、高校に行かないといけなかったのです。
大学3年の時、高校に挨拶に行ったら、私が習った日本史の先生がまだ学校に勤務されていました。
実はこの先生、私は当時からあまり好きではなかったのです。
というのは先生としての熱意がなく、「たまたま教員採用試験に受かったから教師やってます」というタイプの先生。
私が憧れた中学の先生のように「生徒のことも好きで、勉強の楽しさを教えたい」というものはこれっぽっちも感じられない先生でした。
中学の時に、あんなに先生が好きで、好きな教科の先生にはべったりだった私も、この先生には存在を隠しておりました。
好きではなかったからです。
そのため、挨拶に行っても、先生は私のことは覚えてはいませんでした。
当然です。この一度話せば印象に残る私が、その先生のところには行っていないんですから。
教育実習止めて音楽療法の学校行こう
そうです。もう大学3年の時点で、教育実習が乗り気ではなかったのです。
憧れの先生のいる学校なら良かったんですが、いるのは私の好きではない先生です。
障害をもつ私が、過去の経験のように生徒に歩き方を真似されたりするかもしれません。
好奇な目で見られるかも知れません。
その先生がフォローしてくれるようには到底思えなかったのです。
教育実習に行かなければ、教員免許は取れませんが、もう学校の先生になることに何の未練もなかった私は、音楽療法の学校に行くことに決めたのです。
私のダブルスクール生活始まる
その後私は試験を受け、無事に音楽療法の学校に通うことが決定しました。
音楽療法の学校は2年間。
ダブルスクール生活は1年間だけ。
日によっては1コマしか授業のない日もありました。
大学の卒業単位は、3年終了時で、すでに卒論以外は習得済み。
大学にはゼミと卒論指導の時間だけ行けば良かったのです。
しかも、その学校と大学はパス1本30分。とても便利でした。
そして1年目の3月は、大学の卒業式の袴を着て、音楽療法の学校の仲間に会いに行ったのを覚えています。
心理学の講義から普通のピアノの個人レッスン、作曲の授業、ギターの授業、歌の授業、エレクトーン、パーカッション、現場の実習まで本当に色々ありました。
色々な年代の方が集まっているので、すぐに打ち解けられる。そう思っていたんです。
しかし甘かった・・・
入学者のほとんどが音大出身者。
つまり、趣味で音楽を長くやっていた私とは基礎の要素が違うのです。
また音大生という独特の空気感があり、私のキャラが同世代には入っていけませんでした。
また昔の中学までの孤独な自分と似た戦いがあったのです。
「また来たか」そう思いました。
孤立しているわけではないにしても、入っていけないのです。
私たちより15以上年上の人達の中には行けたとしても、その年代にはその年代の輪や空気感があったのです。
やばい。私また取り残される・・やらなきゃ
長く音楽をやってきたとはいえ、音大出身ではない私は、頑張らないと成績が恐ろしく下位になってしまいます。
ここの学校はもちろん未経験者も入学はできました。
でもそれだけ頑張る必要があったのです。
一番必死だったギターの授業
音楽療法にギターがよく使われるため、学校ではアコースティックギターの授業がありました。
ここで問題が発生します。
コードを押さえる方の左手が麻痺で上手く使えないので、音が鳴らないのです。
もう最初から、ズデーンと転んだ私。
ギターの先生が、考えてくれました。
「左利き用のギターがあったら良いんだけど、今はないから、弦張り替えてあげるわ」
そう、左でコードが押さえられないので、まだ力があり可能性がある右手でコードを押さえることを提案。
左手はアルペジオが難しければ、ジャーンと弾くだけでもなんとかなる
先生の協力もあり、1年目はなんだかんだでなんとか終わったのですが、2年目。
課題が『自分で好きな曲を「弾き語り」』だったのです。
これには本当に焦りました。
2年目になる頃には学校が「左利き用のギター」を買ってくれていました。
皆の見ている前でできなければ格好が悪い。
やるしかないのです。
授業のない時間に空いている部屋を見つけ、本当にとても必死で練習しました。
ギターの先生はとても良い先生で、私がどうすれば、なんとかギターができるかとても考えてくれた先生でした
授業終了後、一緒に皆でお茶を飲みに行き、そこで悩みも聞いてくれたりもしました。
その先生の思いに答えたい。
そんな思いも強かったので、練習は本当に辛かったけど、やる以外の選択肢はありませんでした。
そしてテストの日。
私は自分がやりたい曲を、なんとか最後までやりきったのです!
決して、上手ではないのです。
しかし、周りの皆は私と2年間一緒にいます。
私が、ギターという楽器にどれだけ苦戦しているか知っていました。
「○○さんすごい!!」みんながそう言ってくれたことだけは、よく覚えています。
またここでも私の「自分に打ち勝つ。根性でやり抜く」という力が発揮されたのでした。
実はこの10年後、私はこのギターの先生に私自身の結婚式の司会を頼むことになります。
実はこの先生、だだのその辺の人ではなく、1980年代後半からラジオのパーソナリティも務めた、プロのミュージシャンなのです。
音楽漬けの毎日
ピアノの個人レッスンの授業では、これがきっかけでピアノの限界を感じ、弾けなくなるというトラウマにもなったのですが、同じ先生がやる、作曲の授業はとても楽しかったのです。
今まであまり深くは知らなかった音楽理論やコードネーム。
それらを教えてもらい、本当に現場で使えそうな簡単な曲を作ってくるという課題がありました。
自分の感覚でできる授業はとても好きでした。
思いつきで作った曲に、教えてもらったコードを付けて演奏し、先生に「素敵な曲ね」と褒められたのを覚えています。
私はこの学校では、皆に追いつくのに必死だった反面、大好きな音楽に囲まれて過ごすという幸せも感じていたのも事実です。
この頃の私の耳は町のクラクションも全て、頭の中でドレミに変換されてしまい、うっとうしかったのを覚えています。
まだ、小2から通っているピアノの先生のレッスンもあったので、週2回のピアノにフルート、大学の授業、音楽療法の学校、これだけをこなしていました。
え?実習場所が自分の病院。こんなことあり??
2年目の授業で現場実習がありました。
実際に病院に行き、重度障害の子たちの音楽療法を体験してもらうというものです。
実はこの病院、なんと
「私が2歳から通う。自分のリハビリ病院」でした。
実はというと、私は高校以降は部活の関係や、担当の先生が退職された関係で、リハビリに行けていなかったのです。
「これは行けということか」
そう感じた私はこの実習がきっかけで、自分のリハビリに再度定期通院することになるのです。
実習は、言葉を話せない重度障害の子どもたちに、話しかけ、持っていった楽器を鳴らしたり、ピアノを弾いたりすることで、彼女たちの表情の変化を読み取るのです。
毎回話しかけて、色々やっていると「今日は調子が良い日なのかな?」とか「この子はこの音が好きなのかな」とか分かってきます。
毎回、その観察した記録をレポートとして出すのです。
学校の実習はその病院以外にも他にも行きました。
もうひとつは自閉症の方の施設でしたが、彼らはパワフルで、色々な楽器を演奏してくれるので、こちらの方も彼らの音楽に合わせてセッションするのです。
本当に楽しかったです。
感性で過ごした2年間は心の宝物
私がこのブログをやることを決意させてくれたNLPセミナー。
ここで、過去の自分のイメージワークをして出てきたのが、音楽療法を25歳で封印し、置いてきた自分でした。
ずっと引っかかっていたのだと思います。
私は2年間勉強し、楽しかったこの心の感覚が、NLPのワークとリンクして、よみがえってしまったのです。
言葉の話せない子ども達と音楽で通じ合えたあの心の感覚。
今現在の生活の中では絶対味わえない喜びです。
今すぐOLを止めて音楽療法とはいきませんが、今は近いうちに封印してしまった音楽療法を、またどこかで自分の要素として使いたいという気持ちがあります。
20年も離れてしまったので、本気でやるなら、もう1回勉強し直す必要性も感じています。
調べてい見ると今は音楽大学で、大卒者向けの音楽療法科ができており、やりたければ再度勉強ができるのです。
この学んだ音楽療法を、私がどうやって活かして生きていくのか、まだ道は見えません。
しかし過去の私の経験上、前向きにひたむきに生きていれば道はいつか開けます。
人生に無駄はない。
さあ、明日も頑張っていきますか~!見ててくださいね。