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障害と私

大学内で広がり続けた「友達の輪」 

奉子です。今日は私の大学時代のお話です。

最初は全く期待が持てなかった大学。どうか馴染めますように

私が入学した大学は、元々第4志望だった大学。所属は文学部史学科。

通学にかかる時間も、家から駅まで徒歩+電車+バスで合わせて1時間15分かかります。

しかも入学直後にいきなり、オリエンテーションと称して、2泊3日でバスで、岐阜あたりまでいく研修がありました。

 

高校までとは違い、今度は知り合いも誰もいません。

今まで、障害があることで嫌な思いもしてました。

「高校からの私でいけば友達はできると思うけど」・・それでも不安でした。

なんとか行きのバスで声をかけてくれた人がいて、行き先の宿泊先は名簿順に班が区切られていたので、ひとりぼっちではありませんでした。

 

しかし場所は大学。今度は県外からたくさん入学してきます。

高校までのノリとは全く違う、関西以外の出身者の友達が多く、最初の1年は自分を出し切れず、戸惑ったことをよく覚えています。

突然広がった友達の輪。

友達1

なんとなく大学生活に馴染めないまま、2回生になります。

 

この年、なぜか私だけ、他の同学科の友達があまり受講しない、漢文か何かの一般教養を受講したのです。

マイナーな授業なので、教室もとても小さかったことを覚えています。

もちろん隣の席は知らない人でした。

その人たちは友達のようでふたりで話していました。

 

聞き慣れた関西弁でした。

私は思いきって話しかけてみます。

史学科ではなく社会福祉学部の学生でした。もちろん同学年です。

聞き慣れた関西弁だったため、私はそこで自分の自己紹介のついでに「私、阪神好きやねん」とつい言ってしまいます。

 

そしたらその友達「私も阪神ファンやで。どの選手が好きなん?」

私「私、和田さんが好きやねん」

友達A「私は八木さんのファンやねん。でも和田さんも確かにいいよね」

友達B「そんなに阪神好きなんやったら、私の高校の友達でめちゃ好きな子がいるよ。今度連れてくるわ」

久しぶりに、馴染めた会話のテンポでした。

えー。食堂で会えるの?学校が狭いってすごい

仲間3

久しぶりの心の快感を味わった私は、関西以外の出身者である史学科の友達との会話も、普通に楽しめるようになってきました。

 

関西弁が私の心の故郷であるように、他の地域の出身の子たちのその話す言葉は、彼女たちの心の故郷。

いくら京都の大学に来ているからと言って、関西弁で話す必要はないのです。

彼女たちも、今まで自分が育ったものとは違う文化に戸惑っていることはきっと同じなのです。

 

私の大学は、本当に見た目は高校のような、小さなキャンパスでした。

そのため、他学科の学生ともすぐに交流できたのです。

先ほど触れた一般教養で知り合った、社会福祉学部の友人とひとりでいるときにばったり出会います。

 

「くろちゃん、おいでよ、こっち~。ここにいるの私の友達やし」

気がついたら、私はその社会福祉学部の友人のたちの輪に入っていました。

そう、つい数ヶ月前まで空虚感を感じていた私が、高校の時のような友達の輪に囲まれていました。

たまたま受講した障害者体育。ここにもさらなる友達の輪

体育館

私の大学には病気や障害で身体を自由に動かせない人のための体育。「障害者体育」という講義がありました。

高校まで体育では散々苦労してきたので、それを気にしなくてよいこの授業を取得。

大学には社会福祉学部があったため、この講義があったのだと思います。

 

私と同学年に、介護を必要とする電動具車椅子の友人がおりました。

体育の授業では彼と会うのです。社会福祉学部所属でした。

私も歩けるものの、全く同じ脳性麻痺。

彼のお母さんもよく学校に来ていて、仲良くなりました。

 

あるとき、お母様に「家に遊びに来ない?」と誘われました。

当の本人は別の友達と一緒に帰ってくるとのこと。

時間も早く、暇だったので遊びに行くことにしたんです。

気がついたら、周りは阪神ファンだらけ。

甲子園球場外野スタンド

体育の授業で一緒のその友人は、他の友人2名を連れて帰ってきました。

もちろんその友人2名は初対面。もちろん男性です。

普通に自己紹介をして、また、阪神ファンだと話す私。

初対面の友人1「阪神好きなの?僕中日ファンだよ。」

初対面の友人2「僕阪神ファン。誰のファン?」

ちなみにその車椅子の友人は大阪出身、阪神ファン

またここで、阪神ファンというだけで、初対面なのに、野球談義に話が弾むのです。

 

さらに偶然が重なります。

初対面の友人2と会話をしていて、「出身どこ?」の話になったとき衝撃が走ります。

「伏見!」彼から出てきたのは私と全く同じ地元の名前。

 

私「え?伏見のどこ?私○○高校」

友人2「え?僕の幼なじみと同じ高校やん。ブラスバンドでその高校行ってね。僕は高校は私学に行ったんだけどね」

私「え?私もブラバンだけど。え?誰」と言って出てきた名前は、私の1つ上の先輩の名前でした。

 

もうびっくりです。

 

たまたま言った友人の家で、こんな出会いを果たしてしまいます。

ちなみにこの合計4名の出会いは、私に「甲子園に友達と一緒に行く」ことを当たり前にした出来事だったのです。

 

その前に出会っていた社会福祉学部女性の友人たちも、阪神ファンが多く、さらに別の友達も連れてきてくれました。

本当に私の周りは「阪神タイガースファン」でいっぱいになりました。

次は誰と甲子園に一緒に行こうかな。そんな楽しい仲間たちでした。

史学科の友人との関係も良好。ゼミは民俗学

図書館

もう一度言いますが、一応私の専攻は史学科です。

私の大学は日本史しかありませんでしたが、ゼミに民俗学がありました。

民俗学とは習慣や地域の風習を勉強するものです。

 

大学には卒業論文というものがあります。

原稿用紙40枚以上書かなければいけません。

はっきり言うと私は古文書を読んだり、本を読んだりすることが苦手でした。

大学は本を読んで自分で勉強するところなのに、それが苦手って大学来ていいんか!?とも思いますが、まあいいです。

 

しかし、私が専攻したゼミ「民俗学」はフィールドワークが命です。

フィールドワークとは自分の足で出かけいき、その研究したい分野の習慣について詳しい人に話を聞くことです。

卒業論文を書くには、「最低30人の人に会って話を聞く、「聞き取り調査」をすること」と担当ゼミの教授に指示されます。

私の研究テーマは「京都の年中行事と食べ物」

私の卒論の研究テーマは「京都の年中行事と食べ物」でした。

簡単に言うと、京都は何月何日には何をするという、いわゆる「年中行事」を行う風習が強く残っており、この行事の時はこれを食べるというのが結構決まっているのです。

例えば、お正月のお雑煮の中身に入れる食材の話や、1月15日の小正月は小豆粥を食べるという習慣の等です。

一般的なことは本にも書いてあります。

 

本当に30人の知らないおじいさん、おばあさんの家を訪ね歩き、京都市内中色々いきました。

最初は、10歳まで住んでいた家の、町内のおばあさんから始まり、行くところ行くところで紹介してもらうのです。

 

最終的には30人の人に話を聞いた結果、同じ京都でも区によりどれだけ違うのかを調べたのです。

区による違いなんて、本には載っていません。

鉄子さんの私は大学時代に京都市バスの達人にもなる

30人の人の話を聞くのです。今まで行ったことのない地域にも行きました。

そのため、京都市内のバス網をかなり覚えてしまい、京都市バス路線図が頭に入ってしまったのです。

もともと鉄道好きの鉄子さんです。

それからというもの、京都市内に観光したいという他府県の友達の要望を聞くと、最も効率のよい観光ルートを案内できるようになっていました。

 

それに輪をかけて美味しいもの好きです。

美味しいもの好きでなければ、「年中行事と食べ物」なんてテーマにしません。

 

気がつけば、私はみんなから「歩くるるぶ」と呼ばれるようになっておりました。

ちなみに歩くるるぶは私が20代の時の話なので、京都を離れて10年、最新版は更新が出てきておりません(苦笑)

え?ここにも自分の友達の協力が。

私の大切な障害者サークル、「スクラム」

親の手を借りず、障害者当事者だけで外出する会で、さすがにボランティアが多く必要でした。

そこに私の大学の、社会福祉学部の友人たちが、名乗りを上げてくれたのです。

 

そう、彼女たちは障害者や老人や子供等の力になりたいと勉強している学生です。

私を何の違和感もなく言われてくれたのも、決して障害者のことを特別な目で見ていないからです。

このことは、本当に本当に嬉しかったです。

この大学でよかった。この学校に来るのは必然だったのかも

大学キャンパス

卒業して今も振り返ってみると、私の人生で得た広がりは、すべてここの大学で知り得たことが元になっています。

入学したときは第4志望だった大学ですが、もし第1志望の大学だったら、大学が大きいので、他学科の学生とこんな簡単に交流できなかったかもしれません。

民俗学のゼミがあったから、人と話すのが得意な私は、卒論を上手く書けたのだと思っています。

 

大学4年の時に、私はダブルスクールして「音楽療法の学校」に通いますが、ここの学校と大学の距離もバスで30分と近かったので両方通えたんです。

今学んでいるNLPのイメージワークをしても、私の楽しかったときのイメージに、いつも大学の時の仲間が出てきます。

 

そういう意味でも、私にとって大学時代は

「いじめられることも、ひとりになることもなく、嫌なことがなかった楽しい時代」なのだと思います。

みんな本当にありがとう!!

 

大学卒業証明書を取りに、15年ぶりに大学へ。そのときの過去記事のご紹介

2015年8月23日 タイトル「20年前にタイムスリップ。わが母校」

衛生管理者の資格試験を出願するのにあたり、至急で大学の卒業証明書が必要になりました。

郵送依頼には為替が必要な上、郵送の時間もあり、今週木曜にいつもの通院があるので取りに行った方が早いと思い、今日わざわざ依頼書を持って母校へ行ってきました。

行きは昔はなかった地下鉄の駅から徒歩で行きましたが、バス停2つ分の徒歩は、いい運動でしたが暑かった。

母校は雰囲気は変わってませんでした。

大学の校舎

昔はなかったコンビニが学校の表門近くと裏門近くに1個ずつ出来ててびっくりしました。

汗だくで学校に着いて、教務課はどうも土曜日は15時までだったようで閉まっていたんですが、入口ノックしたら対応してもらえました。

木曜日に学校に直接また取りに行くので、郵送代も要らないし、その場で現金で100円払ったらOKで、まあ遠いのに行った甲斐はありました。

 

たぶん15年ぶりに敷地に入り、入ったトイレも最新式になっており、やっぱり月日を感じました。

自販機を見つけ、ベンチに座ってお茶を飲みながら学校の風景を眺め、昔を懐かしんでおりました。

 

大学の庭

 

大学の風景その3

帰りは裏門から出て、在学当時利用していた学校に一番近いバス停まで歩いたのですが、行きが遠かった分、帰りはいつも以上にバス停まで近く感じました。

丸太町通りからこんなに近かったっけ・・・と思いました。 それなら御池遠いはずだわ。

バス停を見ると思い出す無謀な私のエピソード

20年前、私が利用していたバス停「西ノ京馬代町」前には横断歩道がなく、三条京阪方面に向かうバスに乗るには、1個手前のバス停方向に向かってまた戻るしか方法がありませんでした。

帰りに乗るバスが1個で前のバス停から見えているとき、横断歩道を回っていたらバスに間に合わない。

当時、信号のない大きな丸太町通りを車の合間に渡っていました。 そう、結構危ないことしてたんです。

大学3回生ぐらいのときにタイミングを誤って、それで一度本当に引かれる寸前になり、ドキッとしたことがあったんです。

それ以来、バスを1台逃しても遠回りして横断歩道を渡るようになっていました。

 

今日も、ああ横断歩道遠いんだったなあと思って丸太町通りを出ました。

な、なんと20年前はなかった横断歩道ができていたんです!! おかげでバス停まで楽でした。

たぶん、JR円町駅が開業したときぐらいに作ったのかもしれません。

今や、大学の最も最寄駅はJR円町駅になりました。

 

JR円町駅も当初は私が高校生ぐらいのときにできる予定だったのが、どんどんずれて私が大学卒業後開業。

この駅があったら自宅から大学通う所要時間が全く違ったのにって思います。

私は今日は自分が通っていたときと同じ京都バスで三条京阪方面に出ました。

 

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