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障害と私

「危ないから。」その一言に違和感を感じた、障害のある私の幼稚園~小学校入学決定まで

奉子です。

私はプロフィールページにもあるように、2歳~6歳まで通った「障害者のリハビリ付き通所保育園」6歳の1年だけ近所の公立幼稚園に通った経験があります。

つまり最後の1年は日によって行く場所が違ったということです。

こちらの記事にもありますように、私は障害者の通所保育園では最も障害が軽く、何でも一番よく出来ました。

しかし、一般の公立幼稚園では・・・今日はここからお話しを始めたいと思います。

障害のある子は一般の幼稚園には入れない。当時の考え方

幼稚園

あと1年で小学校に上がるという6歳のとき、母は何度も園と話し合いの上、障害のある私を普通の公立の幼稚園に入園させました。

母からすると、単に歩くことが難しい以外は知的にも全く遅れがない私を、一般の幼稚園に入れ、同じように集団生活を送らせたいという、当たり前の思いだったと思います。

しかし、当時は「障害がある=健常者とは教育も一緒には出来ないもの」 という考え方が一般的だったため、伝え歩きがやっとの私を園が受け入れるにはかなりの交渉が必要でした。

単純に考えて、障害者のことはよくわからないし、「何かあったときに責任が取れない」 ということだとは思います。

最終的には、私に目を配る先生をもうひとり配置し、私のクラスは先生が2人いるという形になりました。

一般の幼稚園では危険物扱い

危険

当時の私ですが、伝え歩きはできました。

つまり自分で部屋の中に限っては、自分の欲しいものを這ってでもなんとかして取りに行くことはできたのです。

実は当時私は幼稚園内で、障害者の補装具としてあるヘルメットを被らされておりました。

 

母が当時先生に「別にこの子は障害者の保育園でもそんなものは被っていませんし、要らないと思います」と言ったのにも関わらず、「危ないから」という理由で幼稚園から指示され、完全自費で購入したと思われます。

障害者手帳を取得していれば、金額の補助があったのですが、両親の考えから、当時まだ障害者手帳は取得していませんでした。

 

障害者が使う補装具は一般的に、医師の指示で作るものです。

つまり私は普段の生活を見て、頭を打つ危険性は低かったので、そのヘルメット作成の指示は医師から出ていなかったわけです。

当時の私はそこまで深く考えていなかったため、最初のうちはヘルメットを被っていましたが、途中から自分でもめんどくさくなって被らなかったような気がします。

ともちゃん、何やっているの?危ないから止めなさい。傷ついた担任の先生の一言

幼稚園時代は、その私の面倒をみてくれていたM先生のことは、とても自分で信頼していたのを覚えています。

当時の幼稚園には洋式トイレはなく和式のはずですから、トイレに行くときはついていってもらいました。

運動会もひとりでは走れないので、その先生と手をつないでい一緒に走りました。

餅つき大会も杵をその先生と一緒に持って、餅をつきました。

幼稚園の楽しい思い出です。

外の遊びは難しくても屋内は問題ありませんでした。

少々足が動かなくてもお友達は出来たし、一緒に歌を歌ったりするのは当然同じように出来ました。

 

だだ、ひとり、私にとって不信感を持った人物がいます。

元々の担任の先生です。事の始まりはこうでした。

私が教室内で自分の荷物の中にある何かが取りたかったのです。

基本は何かあれば、M先生を呼ぶように言われていたものの、信頼しているM先生は他のお友達と何か絡んでて、遠かったし、わざわざ呼ぶほどでもない。

スペースが十分にあり、這うのと伝え歩きを組み合わせれば、十分に安全に持ってこられる。

そういう自信が私にはありました。

そこで、私は教室の中を自力で動いて、自分の荷物を取りに立って動いているところでした。

「ともちゃん!何やっているの?危ないじゃない!!止めなさい。どうして勝手に動くの(怒)」

今思えば、障害がある子がクラスにいて、「何かあったときにどうしよう。注意せねば!」という責任感の強さだったのはわかります。

でも、障害者の保育施設で一番だった私にはきつかったんです。

「何やっても褒められてきたのに」「絶対安全にいけるって自信があったのに」「いちいち、遠くにいる先生を呼ばなくても自分で出来るのに、なんで怒られなきゃいけないの?」

そう思いました。

 

卒園してからわかったことですが、私にヘルメット着用の指示をしたのはこの先生でした。

私自身もこの言われたことに傷ついて以降、ヘルメットを被れと言われても被らなかったように思います。

これは一種の私の反論でした。

 

「私は危なくないんだ。特別な目で見るな。私が自分で決めたことをどうして見守ってくれなくて、頭ごなしに怒るんだ。」って気持ちだったんだと思います。

小学校高学年か中学入りたてぐらいのとき、母と一緒にいるときにばったりこの先生に会った記憶があるのですが、顔をみた瞬間、とても憎しみの気持ちがわいてきたのだけは今でも覚えています。

大人が腫れ物でも触るような目で見るのは小学校入学交渉時も同じでした

小学校

私が一般幼稚園に通っていた年、私の両親は私を地元の公立小学校に入れるために、何度も学校に足を運びました。

幼稚園同様、「障害者=養護学校(現 特別支援学校)」の図式が世間一般にはあったのです。

私自身は障害者通所保育園の友達が養護学校に行くため、その友達と一緒に行けるならいいなぐらいに思っていました。

もちろん、当時の私には養護学校と普通公立小学校の違いなんてよくわかっていません。

簡単に言うと養護学校は一般の公立学校に比べ、勉強の時間が格段に少ないのです。

母は一般の公立幼稚園に私を入れたように、私を公立小学校に入学させたかったのです。

交渉はかなり難航・・しかしなんとか公立小学校入学決定

大人が何の話をしていたのかは、覚えていませんが、とりあえず小学校に入学前に何度も連れて行かれたのだけは覚えています。

校長先生との面談でした。

母から聞いた話では学校は「私が他の子と一緒に勉強したら、危ない」とわけのわからないことを言われたそうです。

30年以上前の話です。たぶんもう一般の人には障害の種類関係なく「障害者=危ない。風紀を乱す」ぐらいに思っていたのでしょう。

何度も言いますが、私は教室内を授業中ウロウロしたり、声を上げたりするわけではありません。

むしろ、「動けない」 のです。

 

結局、何度か両親が交渉した結果、無事に皆と同じように近所の公立小学校に入学できたわけです。

今度は担任が二人付くわけもありません。

小学校ぐらいになると手すりがあれば、和式のトイレもひとりで行けるようになっていました。

 

つまりこの頃は学校生活を自分一人で送るのは支障がないぐらい動けるようになってきたということです。

あえての配慮は教室を1階にしてもらったことと、その教室に一番近いトイレ(もちろん和式)に手すりをつけてもらったことぐらいです。

今は障害のある子が一般の障害のない子と一緒に学ぶのは子当たり前になってきていますが、本当にあの頃の両親の苦労を思うと、ありがたいですね。

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